昭和52年01月23日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
桜の花の信心を、おかげを受ける信心。梅の花の信心を、お徳を受ける信心、という風に分けられると思います。段々桜の花の信心から、所謂梅の花の信心が頂ける様にならなければなりません。所謂おかげを受ける事に依って、神様を愈々信ずる事が出来る。そして昨日の御理解の芯になりました様に、神様を愈々信ずるという事は疑わない事だ。勿論どの様な場合でも疑わぬ、それが信ずるという事です。簡単に神様を信ずる。
それはもう、信ずるの反対、は疑う事の様に思うけども、そうじゃあない様ですね、御理解を頂きますと。信ずるという事は、疑わない事なんですけれども、どの様な場合でも信じる、どの様な場合でも、疑わないと言う事ですね。だから大変違うんです。それを言うならば教祖様の御信心で頂きますと、まあ、そういう所が沢山出て来ますよね。『今日は金を拾わすから、お弁当を作って、玉島の方へ向かって行ってみよ。』という神様のお知らせがあった。
お伺いしお伺いし玉島までお出でられるけれども、勿論金は一銭も落ちていなかった。神様はそこで、『お弁当を開け。』と仰る。お弁当を頂かれてお伺いすると、『これから帰れ。』と仰る。帰って御神前に額ずかれると、『今日は如何ほど拾うたかと。』教祖様は答えて、「もう日々が御神前の言わばご奉仕で、只御神前に座るばっかりでございますから。血の巡りも自ずと悪うなります。
今日は命という大変なおかげを拾わせてもらいました。」と、お答えになったと。貴方が拾わすと言われたから行きましたけども、落ちていませんでしたよ、という風に頂いて居られない訳ね。でなかったら、只いいえ拾うとりません、けれども苦しいとは思いませんでしたという様なんじゃあ無くて、むしろお礼になっておるわけです。今日は親戚の誰彼(だれそれ)が死んだ。
親戚中の者と連れのうてお悔やみに行けと。お悔やみに行くと当の御本人が出て見えた。もうそれこそ、穴でもあったら入りたい御思いであられただろうとこう思うです。けれども帰りは、戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍と言うて帰れと仰った。本当に戻しの風を信じて帰っておられます。先生はあげん言うたばってん本なこっちゃろうか、という風な頂き方をしておられない訳です。信ずるという事は疑わない事、しかもどの様な場合でも疑わないという事が、信心でいう、信ずると言う事です。
ですからそういう信心を頂く為には、まず神様のおかげを受けなきゃならん。昨日豊後森の酒井さんから電話が掛かって参りました。此の頃から、娘さんがどうでも警察、女警察官の試験を受ける。沢山な受験者の中に混じって受験をされました。ところが、目が悪いのが一番に撥ねられるんだそうです。ところがとにかく番号が最後だったもんですから、一番終い頃、夕方になってしもうた。大変待ち、困窮もしてから、ちっとはぐらぐらしよんなさった。
そしたら丁度、夕日が沈もうとする夕方、夕方の光がね、ガラス越しに、丁度目の検査のあっておる所に、そこにパッと光ったちいうわけです。だから普通では分からんのだけれども、、ハッキリ分かった。おかげで目だけは合格したるごたるちゅうてそん時言うておられましたが、昨日合格通知が参りましたと言うのです。どげん考えたっちゃ奇跡というより他ない訳です。
沢山の人の中に、娘があげん言うけんで受けさせようというごたる程度で受けさせた。娘はどうでもと言うてお願いして行ったんですけども、だから本当に神様のお繰り合わせというものを信じんわけにはいけん訳です。成程、早かったらもう目だけで失敗しとったでしょう。けども夕方、丁度テラテラその夕日が照り差し込んでくる、そこで丁度あっておったという素晴らしいタイミングの中にですね、おかげを受けて、おかげで只今合格通知が参りました、と言うて電話が掛かって参りました。
例えば皆さんでもそうでしょう、そういうおかげを受けられて、神様を段々信ずるのですけれども、自分の都合良うなる事だけは有り難い。先日から綾部さん所じゃないですけれども、お参りの帰りに、勿論やっぱちっとは無視しとりますもんね、赤信号も構わずに行きよって、向こうからそれこそアッという間に超スピ-ドで走って来た大型トラックと衝突せんばっかりだったからこうよけられた。
ところが、自動車が材木を積んである所にぶっつけたから、もう自動車はタイヤが曲がってしもうてから動かんごとなってしもうた。おかげを頂いて怪我もございませんでしたけれども、私は吉井の出外れかと思いよったら町の中だったそうです。ズ-ッと商店が並んどるところの、もうちょっと行きや電柱があり鉄(かね)のね、それからこちらえ行きや商店がこうある。だからどこえ打ち込んでも、電柱にども打ち込んどったら命がなかったかもしれん。
家の中にどん飛び込んどったら大変な相手に損害を掛けなきゃならなかった。そのほんの合間のところに材木が積んじゃる所にぶっつけたとこういう訳なんです。その朝の御理解が一切神愛という、もうそれこそ途端に、一切が神愛と頂いたと言うて、すぐ又綾部さんがお礼に出て見えられました。もう神様え向こうての事、しかもお参りの帰りの事、もう神愛、神様の働きに間違いがないという頂き方が、信ずる、どの様な場合でも信ずる神様のお働きとして信ずる。
昨日、日田の国師さんのお父さんが、少年少女会で子供が来なければならんから、送って来やりよんなさった。そしたらスピ-ド出しすぎてから捕まえられた。お参りをしておるから、例えばそういう罰金を取られる様な事もなからなければ事故なんか起こらない、という事ではないけれども、それも神様の働きと信ずるという事、いやむしろ教祖様じゃないけれども、その事に対してお礼が言えれるという事なんです。それが私は桜の花の信心から梅の花の信心に成らなければ、そこん所が頂けないと思うです。
私は最近、霊様へご挨拶をさして貰う時に、まあ親戚中の霊達一人一人、私の知っとる限りの霊達に御挨拶さして貰うわけですけども、母が大変若い時に苛められておった事を知っておる、子供ながら。それこそ母がその為に、泣く泣く教会にお参りしておった事もよく知っておる。だからこん奴が何時も親を苛めよった、という様なものがどこにかこうある訳ですね。ところが最近はですね、その霊様に、真からお礼が言えるです、不思議に。おかげで母が信心が出来たというのです。
でなかったらあげな信心辛抱は出来てなかった。あの時分に母は梅の花の信心が出来たんだと思うたら、その霊様に心から、お礼を申させて頂いたら、その霊様が何時も、この頃は大変にこにこしておられる様な気がするのです。信心の心ちゃもう本当に芯がね、阿倍野の先生じゃないけれども芯がなければ火は灯らん。だからその芯がなからなきゃ火が灯らんが、線香の様な芯であったら、線香の様な火であり、大きな芯であったら、大きな火が灯るのです。
信心が段々頂けてくる、分かってくるという事は、その有り難い芯が大きくなるから有り難い光が頂けれる。いつの間にこんなに豊かに大きくなれただろうかと。昨日もある人から手紙が来た、もう挑戦的なんです。もう背に腹は変えられんからこんな手紙を書いたと。もうそげな事の言えれる人じゃあないのです、私に対して。これは私に対してじゃなくてから、若先生宛に来てるんです。とてもどこを押せばそんな事が言えるかという様な人なんですよ。
けれどもそれを正月前に一遍来てから、又昨日こんな手紙が来ましたと言うて持ってきました。それを読んどってんから、もう今にも走って行って、背に腹は変えられんと言うておる人の、背に腹は変えられん、何とかしてやりとうてたまらん心が起こってくるから不思議です。もう以前ならばね、もうそげなこと位ならほっからけとけ、と言いたい様な内容なんですよ。
所が背に腹は変えられんので、こげん言いよる。いやあ本当に困っとるとじゃろうから今にでも行って走って行って、その事を満たしてやるなら満たしてやりたい様な心がするんです。これはどういう事からかと言うとね、人間は決して、只おかげを受けんなんからお参りしとるというおかげの信心からです、徳を受けるという信心は、そんなに始めから徳を受ける信心が出来る筈はありません。
やはり桜の花の信心からおかげを受けて。本当に信心しよってもこんな事が起こってという時には、場合には神様を恨む様な事もあったり、又は信心しとってもこんな事という風に思うたりしてもです。そこをやはり辛抱し貫いて行っておる内にです信心辛抱の徳が付いて身におかげが受けられる。
此の前もお話ししました様に、阿倍野の信者さんが、体験を発表しておられた様にね、難儀な事で、とにかく朝参りをして来いと、家族中で参って来いと言われるから、家族中で子供を引いたり負うたりしてお参りをさして頂いて、まあ金光様の信心ちゃどうしてこんなじゅつない思いをせんならんだろうかと、今までは七時か八時迄眠れたのが、もう五時前にはお教会に着かなきゃならん。
何時間という一日に眠る時間だけでも減る。だから始めの間はどうしてこんな難儀なお参りせなきゃならんだろうかと思うておりましたが、以来御本部参拝も百年祭からというからもう十数年、家族中で御本部参拝も、毎月親先生のお供をして行けれるようになり、毎朝の朝の御祈念にも誰にも遅れん様に家族中で朝参りが出来る様になった。三年間は辛抱致しましたとある。三年間を辛抱し抜かせて頂いた時にはです、もう参らなければおられない、身に徳が付いて来ることが分かってくる。
おかげを頂いて、もう三年前に参った時の様な難儀な事ではない、もう有り難い有り難いに、御礼参りだから、楽しゅうて有り難うなってくる。石の上にも三年、そういう辛抱がね桜の花の信心から梅の花の信心に変わっていく事になるのじゃないでしょうか。そして桜の花の信心より梅の花の信心をせよと仰るから、もう私の信心には桜の花の様な信心は無くなって、梅の花の信心、徳、その徳えおかげが伴うてくるといった様なおかげになるのじゃないでしょうか。
今日私は御神前に出らせて頂きましたら、私の使わせてもらうお便所に花が入れてあります。花を頂いた。あやめが芯になってます。紫色の花ね。あやめというより杜若でしょうかね、が真ん中に一本入ってます。それに根本に菜種の花が入れてあります。それにかずらですね。かずらのこう、あれをあしらってある、まあ三種活けですか、の花が入れてございます。それを頂くんです。そしてどういう事だろうかと思うたら、その菜種の花に蝶々が飛んでくる所を頂くんです。
ああ菜の花に蝶々というから成るほど蝶々、そして私は今日の御理解を頂いていて、分からせて頂いたことはです、お互いの信心がです、安心しとるごたるけどその花で本当に実りのある安心じゃないけれども、何とはなしに信心させて頂いとる、まあ親先生がああ言うて頂いとるから安心しとります、という程度のは、まあ、あやめの花の紫の位じゃないでしょうかね。
菜の花の信心、蝶々が止まる、蝶々が飛んでくる、そして花が散って、そしてあれが辛子の実になって、それが言うならば油ともなって世を光り照らす様なことになってくるわけなんです。そこにならお互いがです、桜の花の信心より梅の花の信心をせよと仰せられるから、本気で一つ梅の花の信心にならせて頂こうと一心発起する事です。そしてそれは出来ても出来なくてもですよ、そういう一心を神様へ向けてくる時に、それはなかなか備前の良い花器に入ってます、だから根が無いわけです。
けれども神様はね、言わば桂という事は桂先生の桂を私は連想させて頂きました。言うなら桂先生と言う事は神様という風に置き換えても良いでしょう。今が本当の安心じゃないけれども、安心を頂いておるかの様なおかげも下さろうとする働き。それは菜の花、根も無い菜の花ではあるけれども、如何にも根があるものかの様に神様が言わば蓮根喰うて下さって、菜の花の信心ができた様にして、この桂、神様が守って下さる。
それこそ言うならば、辛子を油にする過程と言う事は知りませんけれども、まあ結局辛子油が出来る。そこに火が灯る様な、言うなら輝かしいまでのおかげにもなってきますけれども、その実、実際は信心は出来とらんけれども、なら今日の御理解から桜の花の信心、これは私どもん信心な本当おかげばっかりの信心じゃから、もうパッとしたりパッと散ってしもうたり、けどこげなこっちゃいけん。
いっちょ本気で神様にお願いをして梅の花の信心をさせて貰わねばと、そう思う心がね、もう思うたように受けて下さるだろう。思うてそれを実行する事にでもなったら、出来とらんけれども、本当安心のおかげの様なおかげも下さるだろう。それはこの桂が根を引き締めておる。所謂、神様がそう言う風に受けて下さろうという訳であります。私は今日、この二十九節を頂いて御心眼に頂いたその事を、その様に理解付けさせて頂いた。まさしくその通りだと思うです。
私の信心が例えば、例えて申しますと桜の花の信心からだんだん梅の花の信心にならせて頂こう、こりゃ一生がかりで本気でお徳を頂く信心にならせて頂こうとしておる過程だけれども、如何にも梅の花の信心が出来たかの様に、如何にもお徳を頂いとるかの様なおかげをこの様にして見せて下さる、現して下さるのです。毎日毎日ここで奇跡の連続であるという様なおかげもです、これはお徳を受けなければ、そういう働きがお広前に生まれてくる筈がないのです。
けれども私がお徳を受けとる話じゃないですから、お徳を受けたかの様に神様がお計らいを下さると言うのがそのあやめの紫に、それから根本に入れてある菜種の花であり、又はそれを引き締める様にかずらが入れてある、その花の事を今日は私の信心をそういう風に見せて下さったんだと思います。そこでなら皆さんもです、ほんとこれはもうおかげばっかりの信心じゃいかん、本当に少しは信心辛抱させてもろうて、寒修行にこうして朝参りを始めさせて頂いた、まあ寒修行だけと思うて一生懸命の信心をなさる。
それは有り難いです、結構です。けれども、これをそれこそ正義先生じゃないですけど、丁度去年の寒修行から朝参りを始めましたが、おかげを頂いて一年間続きましたと言っておる。まあだ止められんというとこまでなかかしれんけども、これがなら二年三年と続いていく内にです、もう参って来るなと言われても参らにゃおられんという事になってくるのじゃないでしょうか。久留米の佐田さんが、寒修行に一家中でお参りを始められた。一月、いっちょどうでんこうでん頑張ろうと一家中でお参りをした。
もうそれから九年間続けられておるという事。佐田さんの場合なんか、もう言わば止めろと言われても止められないと言う、桜の花の信心からもう梅の花の信心になっておられる事を感じます。だからこそ、ならああいう輝かしいいおかげに段々なっておるわけなんですよ。出来とらんでも出来たかの様に、そこでなら皆さんが思わなければならない事は、まず自分自身の信心が桜の花の信心だなあと思わにゃいけん。
だからこれではいけん、少しずつには、桜から梅に変わって行く、信心を目指さして貰うて、本当の信心の味わいを、おかげの味わいではない、信心の味わいを分からせて貰い、ああこれが身に徳を受けていっておるのであろうかと思われる様なおかげを頂いて、段々おかげを頂いて参りますと、今日は私の親戚の霊の事を申しましたが、この頃おかげを頂いて母を苛めておったその霊様の事が、毎日拝んでもおる祈ってもおるけれども、何とはなしに此の人が本当よう母を苛めよったという様な事を心に描きよったが。
そういうおかげで母が梅の花の信心が出来たと思うから、もう心の底からその事に対してお礼が、所謂一切神愛としてそれが受けずにおられんから、私も有り難いが霊様も有り難い。背に腹がいくら代えられんからと言うて、そういう事が私に向かって合楽教会に向かって言えれる人ではない人が言うて来た。以前の私なら、もうそげなこっどん言うならほうたらかしておけと言いたい様な感じの事だけれども、昨日私はその手紙を見せて貰うて、もう本当に背に腹は代えられんちゅうごと苦しんどるならば、早う勝彦さんどうかして行ってやらんのと言いたいごとあったけれども。
神様はその事はお許し頂きませんでしたけれども、しかし電話だけ位は掛けとかんの、放任しとる訳じゃないよと言うてやっとかんのと言うて、まあ勝彦には申しましたけれども、心の本当に変わって行くと言う事はこんなに嬉しい事はない、自分ながら有り難い事はないです。所謂芯が太うなって行きよる、だから光りも又大きいと言う事になるのです。桜の花の信心から、どうでも一つ梅の花の信心を目指さして貰い、又梅の花の信心になって行くおかげから、お徳の受けられる信心に進んで行かなければならんと思うですね。 どうぞ。